誰かのせい
ずっと恐怖してるものがわたしにはあります。
戦争です。
日本に生まれて、そしてこの時代に生まれてよかった、と小さい頃本を読んで安堵した記憶があります。
とても人がすることとは思えない残酷な描写と、何の目的かわからないけどそのために何万と犠牲を出す必要性には、「これは本当に正しいことなんだろうか?」と幼い頃から思わざるを得ませんでした。
歳を重ねるにつれて、残虐なのは命の奪い方だけにあるのではないと気づきました。
あることないこと吹聴する人間、恐怖に煽られたからと他者を傷つけることを厭わない人間、我先にと横暴な人間、そういう、もし教科書に載るとしたら戦犯でも指導者でもなくきっと被害者数の一人にしかならないだろう人々にも、残虐さは確実にあるんだ、と。
恐怖に煽られたときの決断に、正義は宿るんでしょうか。
あとから掘り起こしてみれば正義だった、とか、致し方なかったのだから正義だった、とか、そういうことではなく。
誰かを責めて、ねじ伏せたことからくる安堵に平和はあるんでしょうか。
自分の生活に危害を及ぼすかもしれないし、まあ現時点では及ぶ範囲にはギリいないかもな、くらいの人を殺人犯扱いするのに、人の心は持ち合わせているんでしょうか。非常識だと煽るとき、常識は持ち合わせているんでしょうか。
ある程度の終息と日常が戻ってきた時、自分の行いや発言を恥じることなく生きていけるんでしょうか。
肝っ玉が据わってていいですね。
自分のしてることは正義だ、と怒りを正当化できるところも羨ましいです。
そういう人は自分も不安を煽る要因になってることに気づかないんでしょうか。
正直どこにでも不安はあります。キリはないです。
自宅待機とは言え例えば自炊ができないからと食料品を購入するために出かけたとき、感染したとしても自宅療養中の食料調達や検査に向かう病院までの通路は人と接触せざるを得ないし、そういう人には出掛けるなとは言えないでしょう。
だから出かけること自体は致し方ないけど、その大小許す許さないを程度によってモブ風情が判断して犯罪にしろとかいうのはいかがなもんかな〜と。
わたしからしたらそういうモブが生きているのもイヤですけどね。
暇だからってニュース見て勝手に正義感に燃えてる。
小さい頃から怖いって思ってたものを思い出しちゃう。
こんな時代を生きてます。